浅野太鼓・浅野昭利専務

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少し長い話になりますが、今年の12月初旬、私にとって大きな喜びを得た出来事がありました。
比べることはできませんが、大分県文化振興功労章の受賞ではありません。
この受賞もTAOにとって、歴史的な名誉ある出来事であることは確かなのですが、
その喜びとは、私の個人的な18年の願いの達成とでも言いましょうか、そんな話なのです。その喜びをこれまでのTAOの経緯に沿ってお話ししたいと思います。

TAOは、設立当初の18年前、ラスベガスの「ミスティア」というシルク・ドゥ・ソレイユのショーを観たことで、未来への方針は決まりました。
「和太鼓で世界に肩を並べるエンターテイメントショーを作り上げるんだ!」
前人未到の大目標を掲げ、そのために何をすべきか?このことだけを考える日々が始まりました。
しかし、振り返ると、そんな途方もない夢物語をよくも言ったもんだと今更ながら恐ろしくなります。
それじゃ、どんなショーを作るんだ!
どうやって世界へ出るんだ!
メンバーはたったの7人、スタッフは私だけ、金も知識も協力者もいない。本当に全く何もない状態で、どうしてそう強く思ったのか?正直自分でも何でだろう?と不思議な気持ちでした。
ただこれだけは言えるかもしれません。
和太鼓に出会ったとき、その表現世界があまりにも素晴らしく衝撃的だったため、完全に私を虜にしてしまったからだろうと思います。
TAO初代団長の奥野康弘の表現力は、私の心の奥深く眠っていた何かを呼び起こしました。
1997年「天響」という舞台作品で、私は演出家としての活動を始めました。
複雑に形を変えるカラクリ舞台、ショーのナビゲーターとしてパントマイムを入れ、TAOのメンバーは、Gパンにジャンバーという、和太鼓界では有るまじき恰好で演奏をさせました。


結果は、評価よりも和太鼓界の方々からの不評が凄かった。


「TAOは和太鼓ではない。和太鼓を分かっていない。あいつらは駄目だ!」と、吐き捨てられるような不評に加え、「TAOを見に行くな!」と村八分にもされました。
私が一番気にしていたある人からの評価は、私の経営センスだけを褒め、TAOの演奏には、NOコメントでした。
耐えられなくなって、再び法被に鉢巻という古典スタイルのLIVEシリーズに戻したこともありました。
「それじゃ、和太鼓で勝負してやる!」と無茶苦茶で過酷な試練をメンバーに与え始めました。
その結果、ほとんどの初期のメンバーを失くしてしまい、どん底の谷に突き落とされてしまいました。


自業自得です。
しかし、水藤義徳、黒柳夏子、西亜里沙、森藤麻記の4名だけが残り、そこから再起を図ることになりました。
「人材育成に全てをかける!」
海外デビューもメジャーになることも二の次。とにかく人を育てる基盤作りに専念しようと心に決めました。
過酷なトレーニングも外部の専門教師をお招きしたり、研修へ行ったりして、情熱+知識を取り入れた裏づけを行い、TAOの里の環境づくりを徹底的に行いました。
そこから凄い新人が入団してきました。
滝良平、岸野央明、河原章弘、そして、江良拓哉・・・
「神様が私にもう一度だけチャンスをくれたんだ!」と本気で思いました。
2004年海外デビュー、2005年からWORLD?TOUR始動、2009年全国公演始動。次から次へと公演を拡大させ、世界で最も興行成功のハードルが高い東京でも公演を成功させるまでになりました。
「さあ?今度こそどうだ!」と言わんばかりに、気になるある人の感想を求めました。
しかし、その答えは、前と同じ私の経営能力を褒めて、内容は褒めてくれませんでした。
「結局目指す世界が違うんだ!」
と、半ば相手の感性を疑うような気持ちになっていました。


それから2011年、2ヵ月間のヨーロッパツアーから帰国し、「浮世夢幻打楽ー参の絵巻ー」の制作に明け暮れていた3月11日、日本の全てを変えてしまった東日本大震災が起こってしまいました。
被災者を助けることも、手伝うことも何もできない自分への嫌悪感と悲しみに、制作が全く進まず、毎日のように心が泣き叫んでいました。自分がこんなにも情けないとは全く知りませんでした。
新作舞台発表の日が迫ってきても、まだ新しい発想が浮かばず、焦りと悲しみと怒りがごちゃごちゃになって、重く辛い日々が過ぎていきました。
そんな時、仙台から一枚の手紙が届きました。
「TAOが私たちのライフラインです!」
この手紙は、TAOの支援者であり、スポンサーであり、最愛の仲間であるクロレラ工業の東北支店松原支店長からのものでした。
勇気頂きました。

今まで魂の奥に溜まっていた情熱のマグマが一気に噴き出しました。


「そうだ、TAOは日本の元気になって、日本を元気にするんだ!!」
そこからは、湧き出て、湧き出て仕方がない、止まらない発想の連続でした。
これまでのTAOにはなかったアイディアが次から次へと形となって制作が進み、

浮世夢幻打楽ー参の絵巻「どっせいや、NIPPON」が完成しました。
2011年は、被災地の東北ツアーを含め、東京でのロングラン、12月には地元九州・福岡でのロングランも大成功し、国内観客動員数は、初めて1年間で20万人を超えました。


10月の東京・赤坂ACTシアターでは、やっぱり気になるある人も招待していましたが、
どうせ、社交辞令での感想で終わるだろうし、「もうある人の感想はどうでもいいや!」と思っていました。
それが、12月の初旬、ある人の専門雑誌「たいころじぃ」で、TAOを絶賛してくれていたんです。
その内容は、記事最下部ににリンクされた雑誌の切り抜きを読んでください。


ある人とは、浅野太鼓・浅野昭利専務のことです。
浅野専務は、和太鼓を舞台表現の世界に作り上げた第一人者で、プロ・アマを問わず、ほとんどの全ての和太鼓演奏者の楽器を製作し、人を、団体を育ててきました。
一代前までは、和太鼓製作では本業として成り立たないほどの零細な規模だったそうですが、今では世界的な規模に拡大し、和太鼓を日本の文化の代表的な存在までにしてくれました。
私の知る限りでは、和太鼓の育ての親と言っても過言ではありません。
だから、ハードルが高かった。
認めてもらおう!なんて考え自体が甘かったのです。
ようやく18年目にして認めてもらえた今年、本当に嬉しかった。どんな人の評価よりも嬉しかった。
こんなにも心から安堵した喜びは、正直自分に驚いています。
今まで18年、相当意識していたんだなと初めて知りました。
これで、TAOも和太鼓の歴史の中に入れたような気がします。
だからこそ、中途半端なことをしてはいけない!と更に身を引き締めています。
世界に誇る日本最高の舞台「和太鼓エンターテイメント」を必ず作ってみせます。


浅野昭利専務、有難うございました。
そして、これからもよろしくお願いします。

2011年12月31日
TAO代表 藤高郁夫

 

 浅野太鼓【たいころじぃ】


 

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